dapf 仏検

apef アペフ

  • サイトマップ

[追悼]長谷川善一先生を偲ぶ

岩本 渉(アジア太平洋無形文化遺産研究センター所長・APEF常務理事)

フランス語教育振興協会(APEF)前理事長の長谷川善一先生が2月21日、82年の生涯を閉じられました。ここに謹んで哀悼の意を表します。故人の思い出をつづるといっても、私は2015年長谷川先生が理事長を退任されるのと同時に本協会の理事になったので、協会での仕事よりも、二人の共通の職場であった文部省(現文部科学省)時代の話が多くなります。

長谷川先生は1962年東京大学教養学部フランス科卒業後文部省に入省され1966年から68年まで人事院長期在外研究員としてフランスに派遣されました。政府による同制度のフランス派遣の第1期生であり、ストラスブール大学、そして後半の1年を国立行政学院(ENA)で学ばれました。後年、私が当時の思い出を伺うと、ストラスブールの冬の暗い夜道を大学の帰途歩いていると、通りがかりの建物の窓から子供が「アジア人!」と言って物を投げてきたというような話を伺ったことがあります。またENA在籍の半分の期間は、Indres et Loire 県の副知事として県内を駆け回ったと懐かしそうにお話されたのを覚えています。一方、Mai 68 の社会の動乱を現地で体験され、「学生らが機動隊に殴打されるのを見て、国家権力の正体を見たような気がする」と話されたことがありました。

フランスへの2回目のお仕事は1975年から78年にかけて在仏日本大使館一等書記官、文化アタッシェとしてのご勤務で、我が国初のフランスの国宝級の展示、モナ・リザ展実現に向け現地で精力的に交渉にあたったのも先生でした。当時、国際交流基金からパリに派遣されていた故大塚本協会理事とは、ともにパリを舞台にして働いた戦友でいらっしゃいました。

私は、先生より15年後に生まれ文部省に入省しましたが、長谷川先生と言えば、省内の国際派の代名詞的存在でした。私が、文部省で長谷川先生以来13年ぶりにフランスへ行く在外研究員を志願した時に省内選考をしてくださったのも先生でした。また、最終選考合格後、フランスの大学から予備登録の回答がないと言ってやきもきしてご相談すると「君、フランスが相手だから心配しないでいいよ」と慰めてくださいました。いよいよ渡仏が近づくと、凱旋門から放射線状に伸びた avenue のどれを行けば大使館に行けるか、手配してくださったホテルにどう行くかを、きれいに地図にして教えてくださいました。語学研修を受ける Tours へは、普通一つ手前の St-Pierre-des-Corps の駅で降りて乗り換えなくてはいけないなどと教えてくださいましたが、そんな時には、ご本人も懐旧の念に浸っていらしたようでした。

私が大使館勤務になった時もたまに出張などでいらしてご一緒することがありました。その折、長谷川先生から言われた「フランスの官僚はどんなに忙しくても面会の申し込みがあると断らない、短時間でも会って話を聞いている、これが彼らの優れた仕事の秘訣だよ」という言葉は、今でも私の仕事に大変役立っています。

後年ユネスコを志望した私が、二国間の外交官の仕事と国際公務員の仕事の比較を先生に伺ったところ、「国際機関は普遍的な理想を追及はしているが、déraciné になるようで、僕は苦手なんだ」と言われました。自分のアイデンティティは守りたいとお考えだったような気がします。20年たった今、二人でこの点を議論しだしたら1日では足りないだろうと思います。

長谷川先生は、文部省退職後も多様なお仕事に就かれました。APEFには1998年から関わられました。2011年の公益財団法人化の実現は、役員、事務局一丸となった努力の賜物ですが、長谷川理事長の豊かな職務経験、卓越したリーダーシップと洞察力がなければ実現しなかったでしょう。フランス語に serein という言葉があります。長谷川先生はじっくり相手の話を聞き沈着に行動され、まさにこの言葉が打って付けの方だったと思います。

APEFの会議の後の懇親会などで、よく大塚理事とお二人戸外で喫煙し談笑されている姿を目にしましたが、私には、一幅の寒山拾得の画のように見えました。今頃天国からお二人はあの優しい眼差しで我々を見ておられることでしょう。

 

仏検成績優秀者表彰式(2014年3月 於日仏会館)にて
モロッコ大使のスピーチに耳を傾ける長谷川前理事長

 

APEF前理事長の長谷川善一先生が2022年2月21日、82歳でご逝去されました。長谷川先生は文部省(現文部科学省)入省後、在仏日本大使館書記官、文部省学術国際局長等を歴任。日本芸術文化振興会、国連大学等でも理事を務められ、2012年にはフランス共和国から教育功労章オフィシエを受章されました。APEFでは1998年に理事に就かれた後、2004年からは理事長として2015年までの11年にわたり公益財団法人化を始めとする協会の発展に大きく寄与され、2015年から2019年までは評議員を務められました。謹んでご冥福をお祈りいたします。