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素人のフランス語

岩本 渉(アジア太平洋無形文化遺産研究センター所長 ・ APEF 常務理事)

私はフランス語の教員でも研究者でもないが、フランス語には随分助けられてきた。

フランスの小説を愛読していた上に語学が好きだったから、大学はフランス語学科にしようと思っていた。しかし父から、それでは飯を食っていけないと諭され(これを読まれている方の多くは飯を食っていらっしゃると思う。すいません。)結局法学部にした。だが、教養課程では第2外国語のフランス語を遮二無二勉強し、法学の専門課程が始まっても、文学部の図書館で「痴愚神礼賛」の羅仏対訳本を借りたりしていた。

パリ第2大学正面公務員になって2年目に人事院在外研究員の試験で、フランスを希望し受験したところなんとか合格、1979年から1981年までフランスに行った。初めの3か月間はトゥールの語学学校に行ったが、当時は文法中心の教授法で、しかも日本人学生が多く関西弁や日本各地の方言の勉強にはなった。

その後パリに上りパリ第2大学で行政学の DEA(博士号取得準備課程)に登録。私にとって、行政学といえども講義はすべてフランス語の勉強であった。日本式経営が注目され始めたころで、教授の友人の会社員から夕食に招かれ日本の稟議制とは何か説明を求められフランス語で苦労して説明したこともあった。授業の中で印象的だったのは、Conseil d’Etat(最上級の行政裁判所)の判決を読む留学生向けのクラス。判決の内容を理解してなぜ原告または被告が勝ったかを口頭でまとめるという授業で、これは非常に勉強になった。一般に、判決は1ページに1つもポワンが出てこない長文で主述の係りが判りにくいという、プルースト並の文章の連続で、これで随分読解力が身に付いた。DEA取得後、1980年秋からは Collège de France へ聴講に行った。ミシェル・フーコーは早朝の授業で聴講生が多く少し遅参すると床に座らざるを得ないので脱落。レヴィ=ストロース教授の講義は混んでいたが、席には座れた。「ミクロネシアの親族構造」がその年度のテーマだった。Cousin croisé(交叉いとこ)や cousin parallèle(平行いとこ)という概念や教授の描く系図を通じ親族構造と社会構造について勉強した。ある日の講義で教授が突然 ≪ Au Japon, la famille Fujiwara… ≫ と話し始め驚いた。藤原氏の外戚政治に言及し、ミクロネシアの親族構造との類似性を指摘したのだった。文化を相対的に見ることの重要性を学びこれは今の無形文化遺産の仕事に役に立っている。

レヴィ=ストロース教授の献辞1990年から1993年まで在フランス日本国大使館で文化担当一等書記官を務めた。日本文化の紹介、日本を目指す国費留学生の選考など仕事は多岐に及んだ。当時イル=ド=フランス向けの Radio Asie というラジオ局があったが、そのインタビュー番組で日本文化の特質やフランス芸術への影響などを30分話したことがあり、後で知人の親類の子から「僕はあの放送を聴いて日本語を勉強し始めました」と言われた。また、文化交流の推進策についてフランス文化省の役人と幾度も議論したほか、日本人出張者の通訳代わりとして同行することもよくあり、完成直後のバスティーユ・オペラ座の舞台装置を視察することなど10回近くあった。とにかくフランス語が本当に武器となった。他方、各地で日本文化祭などがあると大使館代表として挨拶することがよくあった。パリ近郊の町が自前で宮崎駿監督の映画祭を開催した時に、私が祝辞で、「宮崎監督の映画は、『星の王子様』のように、かつて子供だった大人のためのものです」と締めくくったところ、市民から大喝采。後日調べたらその町の中心にある教会の名は Eglise de Saint-Exupéry ということがわかった。仕事の関係でレヴィ=ストロース教授と久しぶりにお会いし数回研究室にお邪魔した。当時出版された Histoire de lynx(邦題『大山猫の物語』)に先生から献辞を頂いたが、これは今でも家宝となっている。日本の文化人類学への貢献に着目した大使館の推薦に基づき、先生は1993年春日本政府の叙勲を受けられた。レセプションを大使公邸で開いたが、帰り際奥様運転のルノーサンクに乗られる際、先生が私に ≪ Merci à vous. ≫ と言われたのを昨日のことのように覚えている。

3回目の滞仏は2001年から2009年の間で、ユネスコ本部に勤務し教育局、社会・人文科学局で部長を務めた時である。ユネスコ職員は英仏2か国語が仕事上使用できることが求められている。フランス語ができたことと修士相当の DEA を取得していたことがどれだけユネスコ応募に有利に働いたかわからない。スポーツにおける反ドーピング条約の草案を作成した際、各国のユネスコ代表部の大使に、ニュージーランド人の同僚とともに根回しに行ったが、フランス語圏の大使には私がもっぱら説明した。条約がユネスコ総会で採択された直後、France3 というテレビ局から条約の意義等についてインタビューされ、その模様は首都圏版ニュースとなって放映されたが、多くの知人から「テレビで見たよ」と言われ面映ゆかった。

ユネスコの同僚たち(オフィスにて)

さすがに日本にいるとフランス語を使う機会がない。そこでなるべく文庫本で原書を読むことにしていて、3年前からゾラのルーゴン=マッカール叢書を読み始め、全20巻のうち現在第19巻 La Débâcle(邦題『壊滅』)まで来たところで普仏戦争終盤のアルデンヌ地方、セダンにいる。フランス研究者の知人からは「岩本さんは楽しみでフランス語の本が読めるからいいですね」と言われたが、これも素人の特権であろう。

グローバル人材という言葉が官民挙げて叫ばれて久しいが、そこでは英語能力の話ばかりが出る。しかし、国際機関で働いた経験からすると、英語だけから見る世界というのは、片目をつぶってみたものだと思う。フランス語、フランスから見た世界はまた違うのである。グローバル化は、画一化を強いるようでありながら、実は世界各地域での状況の相互連関を増大させている。こうした中、今ほど英語以外の外国語を学ぶ必要性が高いときはないのである。