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[追悼]石崎晴己先生を偲んで

西澤 文昭 (APEF 理事長)

 昨年の10月28日土曜日、石崎晴己先生の告別式に出席するため、自宅を出た。その3日前、青山学院大学のフランス文学科から先生が22日に亡くなったというメールを受けた。告別式は28日に行われるということだった。その日は高校の同窓会が予定されていて久しぶりに上田市に戻ることにしていたが、急遽取りやめた。当日、横須賀市から斎場のある越谷市へと向った。2時間ほどの車中で、あまりにも急なことに驚きながらも、同僚として過ごした30年に及んだ日々を振り返っていた。今回の記事では私とではなくAPEFと石崎さんのことを書くことになるが、私たちはフランス語教員としての同じ志、同じ使命感で最後まで繋がっていたと信じている。

 私は2013年からAPEFで常務理事を務めた後、2015年に理事長になった。その時点で、石崎晴己先生の名前は新たに認定を受けた「公益財団法人」の評議員の中にあった。評議員会の議長として人事案件などを手際よく捌いてくださったという印象が第一に残っている。2019年5月に退任された。ただ、石崎先生のそれ以前のAPEFとの関わりは後述するが、私のおぼろげな記憶と財団法人の資料の中から探しあてるしかなかった。

 そのことを述べる前に、APEFの歴史を簡単に記しておくのが適切だろう。

1966年 「日仏文化交流センター」として設立
1967年 第1回夏期フランス語研修旅行を実施(ソルボンヌ夏期講座に40人の学生と指導教授が参加)。続いてグルノーブル大学が加わり、さらにアンジュー、ヴィシー、カンヌ、ディジョン、ニース、ポー、モンペリエ、ラ・ロシェルに派遣先を広げた。
1970年 名称を「日仏文化センター」と改称
2007年 研修旅行(と留学支援事業)を廃止
(この40年間に派遣した研修学生は約12,000名、指導教授は約240名に上る)

派遣事業に加えて仏検の事業が1981年に始まる。

1981年 「実用フランス語技能検定試験」(DAPF)事業が始まる。福井芳男先生、田島宏先生が中核となった。私も第2回試験から問題作成に参加した。
同年秋 秋季試験実施(1級、2級、3級)、1307名の受験者
1985年 4級新設
1986年 「日仏文化センター」を「フランス語教育振興協会」
(APEF)として改組し、財団法人と仏検の「文部省認定」を申請し認可された
1994年 準1級、5級を新設
2011年4月 公益財団法人として新たに発足

 さて、石崎先生とAPEFの2011年以前の関わりに入っていこう。派遣事業に陰りが見え始めたと思われる頃、また対照的に、仏検事業が成長を続け始めた頃、2002年に東京大学の加藤晴久先生が副理事長に就任にしている。それから10年ほど後のことと思われるが、私をAPEFに誘ってくださったのは、加藤先生と石崎先生だった。青山通りにあった鰻屋に誘われて、この顔ぶれだともしかしたらと思いながらついていくと案の定、そのような話になった。石崎先生がなぜその場におられたのか。想像できるのは1990年代の出来事に関係があるということしかない。自分の記憶をたどり、しばらく資料を漁ってみたところ、石崎先生は現在ある記録では、1998年から2008年5月まで常務理事あるいは理事を務めていたことがわかった。資料を見ているうちに、1990年代の自分のこと(実は1991年にサバティカルを終えて帰国した4月に、研究室で気分が悪くなり診療所に運ばれた。ストレス性高血圧と診断された。それから数年は超低空飛行の日々だった)と同時に、ややおぼろげながらも当時は4人の常務理事がおられたようだったとわかった。メンバーは加藤先生、石崎先生、慶應義塾大学の筑紫先生ともうおひとりだった。この先生方の顔ぶれから重要な出来事が浮き彫りになってきた。現在も活発に活動している「国際フランス語教授連合」(FIPF)という国際的な組織の存在だ。実は加藤、石崎、筑紫の3先生はじめ、日本フランス語教育学会のメンバーの方々は1996年にFIPFの世界大会を東京で開くという目標を掲げて活発な招致運動を展開していた。それはまず1992年7月スイスのローザンヌの第8回国際フランス語教授連合世界大会で、加藤先生が FIPFの副会長に選出されたこと、同時に、筑紫先生がアジア・太平洋地域を代表する理事に選出されたという事実に現れている。私が参照した1992年の報告書には次期世界大会の場所については記されていないが、1996年の報告書は世界大会が1996年8月25日から31日まで慶應義塾大学の三田キャンパスで開催されたこと、そこで行われた研究発表などを記している。

 この出来事は日本のフランス語教育界にとって重要な分岐点となり、アジア諸国のフランス語教育事情に強い関心が向けられることになった。

 石崎先生の名前がAPEFの資料に出てくるのは上に述べたような「センター」から「財団法人」になった時期以降、研修旅行の後期と仏検が重要な事業として機能しはじめた時期と重なる。当時の常務理事の一人として活動されていた様子が資料から見えている。それと平行するようにFIPFの東京大会の現場で重要な任務を果たされたに違いないと私は信じている。

 ところで、話が少しずれるが、APEFのホームページの「仏検とは」や仏検実施要項の冒頭にある「フランス語はわたしに世界を開いてくれる」 Le français m’ouvre le monde. とFIPFの間につながりがあるという証拠を発見した。私たちの事務局には大きな大会ポスターと記念Tシャツが置かれている。実はTシャツには Le français m’ouvre le monde. が書かれているのだ。そしてポスターには、

Le français au 21e siècle / Tracer l’avenir / Cultiver la différence とあり、

「21世紀のフランス語は未来を拓き、違いを耕す」

という標語が見えている。21世紀のSGDsにつながる思いが主催者の中にあったことを示していると私には思える。

 石崎先生、あなたと同じ大学で30年を同僚として過ごしたこと、今年で58年の歴史を刻むAPEFのために一緒に働くことができたこと、このことには感謝しかありません。先生が著した『ある少年H――わが「失われた時を求めて」』(吉田書店、2019)と『続 ある少年H――わが「失楽園」』(吉田書店、2023)という2冊の自伝は私にとっては何よりの贈り物です。とりわけ「集団疎開」で過ごされた日々の話は私を生まれ故郷へと掠っていったのですよ。安らかにお眠りください。