フランス語をとおして見えるもの

日比野 雅彦 (人間環境大学教授)

大学に入学して2年目、フランス語会話の授業を受け持ってくださった先生はアフリカ出身の先生だった。ムバンジャ先生という。先生は毎週、お住まいのある京都から名古屋まで来て授業をしてくださった。当時、フランス語がフランス以外の地域でも話されているということは頭の中では理解していた。また、イヨネスコやベケットといった劇作家がフランス人でないこと、当時人気のあった歌手のムスタキやナナ・ムスクーリもフランス人でないことも知っていた。しかし、現実に目の前にいる先生がアフリカのカメルーン出身の人であるということは、映画や書物でフランスのイメージを作ってきた学生にはやはり驚きであった。風の便りで聞いたことだが、ムバンジャ先生は日本で教鞭をとられた後、帰国されたがそれからしばらくしてお亡くなりになったとのことである。アフリカの西海岸ではカメルーン以外にもセネガルやコートディヴォワールなど、かつてフランスから植民地支配を受けた多くの国がフランス語を公用語もしくは第一言語としていることを強く意識するようになったのはこれがきっかけだったかもしれない。

大学時代に教えていただいたフランス人にはベルギー出身の先生もいた。デュケンヌ先生という。背丈が2メートルあるのではと思える先生で、教室に入るときも頭を低くしなければならないほど大柄な体を、小さな椅子に座って授業をされる様子はなんともアンバランスであった。また、大学の英米学科にはカナダ出身の先生がいたが、フランス人の先生とそれぞれが英語とフランス語を使って会話をされていた場面を目撃したこともある。

フランス語を学びながらフランス語がフランス以外の地域でも話されているということを実感できたのは、40年ほど前の日本、それも外国人の多い東京ではなく、まだ数えるほどしかフランス語を話す外国人がいなかった都市では貴重な経験だったのではないかと思う。

はじめてフランスに行ったとき、南フランスの小さな町を訪れたことがある。というより、その町の近くに古代ギリシャの遺跡があるというので夏の一日、バスを乗り継ぎ、ブドウ畑を2キロほど歩いて遺跡に辿りついた。フランスではごく当たり前のことだが、12時になると昼休みになりこの遺跡も閉館となる。あわただしく見学したのだが、遺跡そのものより、そこから見える奇妙な風景に驚いた。放射線状に拡がる円形の畑地で、フランス人は庭園だけでなく畑も幾何学模様にするのかと驚いた。

12時に閉館になってしまったので町まで戻った。地中海の乾燥した夏のことである。町に着くころには干物のようになってしまった。そこで、咽喉の渇きを癒すため町の中心にあるカフェに入ってun demiをたてつづけに2杯飲み干した。田舎町のカフェに突然入ってきてビールを飲む不思議な東洋人を見て、カフェの主人がいろいろと尋ねてきた。「どこから来たのか?」と聞くので、「どこから来たと思いますか?」と逆に質問を返してみた。ところが、なかなかJaponという言葉がでてこない。最初はVietnam、つぎがChineとくるのだが、そこから先はなかなか日本にたどり着かない。25年前の地方の小さな町では日本というイメージが頭に浮かんでこないらしかった。しびれを切らして日本人であること、この町の名はNissan-lez-Enséruneというが、私はNissanではなく、もう一つの日本の車Toyotaの近くの町から来たことを話した。自分ではしゃれた表現をしたつもりであったが、つたないフランス語能力、そして、日本で日産と呼ばれている車はヨーロッパではDatsunと呼ばれていたこと、さらに、当時、トヨタの車はフランスで見かけることがほとんどなかったことから考えて、相手のフランス人にはまったく理解できなかっただろう。しかし、このわけのわからない会話をしたおかげで、なんと昼食に馬肉のステーキをご馳走になってしまうという貴重な経験ができた。いずれにせよ、フランス人には東洋人として最初に頭に浮かぶのがベトナム人ということがなんとなくつかめたことも事実である。

その後、中部フランスにある美食で有名なロアンヌにある語学学校に学生を連れて行ったときのことである。宿舎でコックをしていた老人から、軍隊にいたとき、船で長い間コックをしていたこと、そして横浜にも寄港したこと、さらに、若い頃ベトナムに行って知り合ったベトナム人と結婚したことなどを聞かせてもらった。フランス人にとってベトナムは、私たちが考える以上に身近な土地なのである。

もっとも最近は、フランスからみて日本も近くなってきたのだろう。ロアンヌの近郊にある人口200人程の村を学生と一緒に訪れたとき、学生たちのおしゃべりに気がついたのか、男の人が小さなお店から出てきて、「日本の方ですか?」と声をかけてきた。「絵を描くためにしばらく日本に滞在したことがある」という。昔は日本人を見ることが珍しかったであろうフランスの片田舎でも、「日本に行ったことがある」というフランス人に遭遇できるというのも、世界が近くなった証なのかもしれない。

外国の学校との交流授業

立花 英裕 (早稲田大学教授)

最近、visioconférenceによって海外と交流授業を行なっている。いわゆるテレビ会議によるフランス語授業である。一般の学習者は、実際にフランス語を話す機会になかなかめぐまれない。いかに教師が実践的なフランス語教育を唱えても、学生が学んだことを生かせる機会が限られているのであれば、その意義は減じてしまう。そこで、教室内に実践の場を作ってしまおうと考えた次第である。

導入したのは、早稲田大学のオープン教育センターで開講されているフランス語上級クラスにおいてである。オープン教育センターの授業は、全学部の学生が登録できる。登録定員は20人に限定した。抽選で落ちた学生が相当数出たがいたしかたなかった。この形態の授業には20人が限度である。

授業形態は、いろいろ考えられるだろうが、一つのポイントは、どこの、どのような学校と提携するかである。そこで私が参考にしたのは、昔のフランス夏期講習での経験である。まだ思うようにフランス語が話せない段階では、フランス人よりも外国人の方が仲良くなりやすいことを思い出した。そこで、まずフランス・ブレストの語学学校CIELに声をかけた。大学の方が通りがいいが、あえて語学学校を選んだ。次に、韓国の仁荷大学Université Inhaとルーアン大学と交渉した。ルーアン大学の場合は、FLEのマスターに在籍している大学院生が相手だったので事情は異なるが、他の2校とは期待通り、外国人フランス語学習者との交流になった。仁荷大学の場合は、もちろん韓国の学生たちが相手で、CIEL校はタイの学生だった。

交流では、双方の学生が料理のレシピを紹介することにした。食は誰でも関心がもてるし、表現が比較的単純である。また、食材を切ったり、フライパンを扱ったりする真似をしなければならないことにしたので、動作と言葉を結びつける練習になる。一回の交流は約60分を目処とした。1人の発表者が、3分から5分程度でレシピを紹介し、質問を受ける。次に、相手校の番になる。やってみると、双方から質問が続出し、毎回予定を大幅に越えて2時間近く授業することになった。今後は、もっとコンパクトにまとめるように努力したい。

授業運営のポイントの一つは、教師の役割である。理想からいえば、学生が主体になってほしいわけで、教師は、様子を見ながら、アドヴァイスを与える程度がいいのだろう。しかし、実際には、継続的に毎週同じ相手と話すなら別だが、1セメスターで1回から3回程度しか顔を合わせない学生同士が対話を維持するには、教師も一定の役割を担う必要がある。たとえば、相手の質問が分からなかったらどうするのか、あるいは、説明が相手に理解してもらえなかったときどうするのかなど、様々な状況に出くわす。今回私は、ある程度、介入することにした。ただし、日本語は使わない。遠隔授業で大事なのは、相手校の教師との間の十分な信頼関係である。相互に信頼できれば、多少のことがあっても乗り切れる。

学生が選んだ料理は、お好み焼き、カツ丼などなど....。韓国の学生は、韓国料理を紹介してくれた。日本の学生もキムチ料理など韓国料理に馴染んでいるので、双方から笑いがわき起こった。フランス料理なら、こうはいかないだろう。CIEL校のタイ人の学生たちは、フランスの大学に入学するために勉強していたので、レベルが遥かに上だった。レベルが均質でないときは、教員が助け船を出してあげる必要がある。そうでなければ、相手が退屈してしまうだろう。相手方も楽しめるように、教師が臨機応変にコメントや情報を与えてやると、次の回の雰囲気も盛り上がるようである。文化的な要素を積極的に取り入れて、教師だからこそできる話をした。タイ人の発音は独特で学生には聞き取りにくかった。しかし、そういうフランス語の発見も、visioconférenceだからこそできる。

遠隔交流授業の利点でもっとも貴重なのは、他者性の体験である。たとえば、こちらの学生が、生卵をご飯にかけて食べる話をしたときのことだ。タイの学生たちが、一様に驚きの声をあげた。「病気にならないか」と、目を丸くした女子学生もいた。このような時、学習者は、普通の授業では学べない何かを体験する。そこには、異文化を「理解」するということには収斂しきれない何かがある。それを他者性の体験と呼んでおきたい。今回の場合は、発表者の語学力があまり高くなく立ち往生したので、教師が引き取ってあげた。とっさにリービ英雄の小説『星条旗の聞こえない部屋』が生卵を食べる行為で終わっていることを思い出したので、その話をした。

実践的な場で学生たちの力は目覚ましく向上していく。文法的な間違いは直さない方がいいようだ。その中で、学生の感応力をいかに引き出してあげるか、それをこれからも模索していきたい。