dapf 仏検

apef アペフ

  • サイトマップ

フランス語と私

松浦 晃一郎(第8代ユネスコ事務局長)

1.フランス語をしっかり使った15年半

私はパリで駐仏大使を1994年の夏から5年半近く務めて、続いてパリに本部をおく国連の専門機関ユネスコの事務局長を1999年11月から10年間務めた。駐仏大使時代の5年半は当然のことながらフランス語で仕事をした。

大使の役割は首都でフランスの外務省をはじめフランス政府の関係者、さらには民間の各界の要人と接触することが重要な仕事であったが、同時にフランスの地方で講演するのも重要な仕事のひとつであった。私は5年半の間にフランス各地の主要な都市を訪れて、日仏関係の歴史、現状および今後の見通しに加えて日本が抱える外交上の諸問題についてもフランス語で講演した。講演のためには事前に原稿を用意していたので、その原稿にさらに手を入れて二度にわたってフランスの出版社から私の講演集を出版した。最初は日仏関係の歴史、現状および今後の見通しについての講演集で、二つ目は日本の外交が抱える諸問題についての講演集を出版した。ユネスコ時代になってからアフリカのフランス語圏のユネスコ代表や本国の外務大臣、文化大臣、教育大臣等からこれらの講演集を読んで大変勉強になったと言われたのは非常に嬉しかった。

ユネスコは公用語が英語・フランス語・スペイン語・アラビア語・ロシア語及び中国語の6か国語であるが、通常の使用言語は英語とフランス語である。しかしながら、ユネスコ本部がパリにあることもあり、フランスの影響力が強く、伝統的にはフランス語が一番使用される言語であったが、国際的なグローバル化の進展で、ユネスコの会議でも次第に英語の使用が増えてきた。

ユネスコは教育、文化、自然科学、社会科学およびコミュニケーションの分野を担当している国際機関である。私は第8代事務局長であるが、前任の事務局長はスペインの教育大臣を務めた方で、フランス語がほとんど母国語のようなものであった。その前の事務局長はセネガルの教育大臣を務めた方で、セネガルがフランスの植民地であったこともあり公用語はフランス語で、彼のフランス語はまさに母国語であった。その前の事務局長、すなわち第5代事務局長は1960年代から1970年代にかけて世界遺産条約の採択等を含めて文化関係で非常に重要な実績を残された方であるが、その方はフランスの文化大臣を務めた人であった。

しかしながら第二次大戦後アメリカが国際的な存在感を強め、更には東西冷戦終結後アメリカの主導のもとに1990年代に国際的なグローバル化が急速に進んだ結果、英語が第一の国際用語になってきた。逆にフランス政府は、パリに本部を置くユネスコにおいて英語が第一使用言語になることは許さないということでフランス語の使用を強く主張した経緯がある。

ユネスコでの国際会議では私はその時の状況に応じて使用言語の英語とフランス語を使い分けた。また、ユネスコの事務局内の会合では英仏いずれの言語でも発言できることになっている(通訳なし)。また、ユネスコの事務局は本部で約2000名、海外事務所で約1000名、合わせて3000名のスタッフが働いていたが、その一番の中核をなす組織は事務局長とその補佐官(約15名)、その助手等(約20名)で構成される補佐官室(合わせて約35名)であった。

これはフランス的な組織であり、フランス語でキャビネと呼ばれた。私はキャビネのトップにフランス人の女性、ナンバー2にレバノン人の女性を雇ったこともあり、補佐官達との会合は常にフランス語を使用した。

上記のような次第でフランス大使時代の5年半の公的な使用言語はフランス語、それからユネスコ時代の公的な使用言語はフランス語および英語であったが、フランス語の使用の方が多かった。

しかしながら私が日本の中学校で学びだした最初の外国語は英語であり、外務省に入って研修先として選んだのもアメリカの大学であったので、若い頃の第一外国語はなんといっても英語であった。そういう状況のもとで外国語が非常に好きであった私にとっても、フランス語で仕事ができるようになるまでには非常に苦労したので、その苦労話を以下に書きたいと思う。

2.日本での学生時代

私は小学校5年生頃から小説を読むのが好きになり、父が持っていた夏目漱石全集や島崎藤村全集を貪るように読んだ。中学2年生になった時に国語の先生から、小説を読んで感想文を書くべし、という宿題を出された。当時私はこの機会に外国の文学を読みたいと思い、先生に何か一つ推薦してほしいとお願いしたところ、フランスのジョルジュ・サンドという女性作家の『愛の妖精』を紹介してもらった。早速本屋で文庫本を買って読むと、フランスの田舎を舞台に十代半ばの双子の兄弟と彼らをめぐる二人の少女の交流の物語であった。先生には私が山口県の島地村という田舎で小学校に通っていたことをお話したことがあるので、その小説を推薦してくれたものと思う。非常に感激して島地時代を思い出しながら感想文を書いた。(フランス勤務時代に改めて同小説をフランス語で読み直してみて、4人の少年少女の微妙な感情の動きを当時の私が深く理解したとはとても思えないが)。残念ながらその感想文は残っていない。

それを契機としてフランス文学に非常に関心を持ち、中学生時代さらには高校生になってからスタンダール、フローベール、モーパッサン、バルザック等のフランス人作家の小説を読み漁った。

日比谷高校の2年生になると、第二語学の授業をとれることになったので、私は早速フランス語をとることにしたが、父は私の将来の職業としてお医者さんを目指したらどうかと提案し、ドイツ語を勉強すべしと強く主張した。そこで私はフランス語に加えてドイツ語を学びだしたが、大学受験を1年後に控えた高校2年生で英仏独3か国語を同時に勉強するのは厳しいので、父の進言に従いドイツ語は続けることにした。そしてフランス語は諦めた。しかし当時NHKの朝の放送で前田陽一先生がフランス語の講座を放送しておられたので、それはずっと続けて聴いていた。後から考えるとそれが私のフランス語の基礎を学ぶことに大変役立った。

東大の教養学部に入って私はドイツ語の既習組に入り、英語、ドイツ語に加えてフランス語、ラテン語、ギリシャ語のクラスをとった。しかし5か国語を続けるのは難しいので、ギリシャ語は途中で諦めた。いずれにせよドイツ語のクラスではドイツの小説をドイツ語で読む機会に恵まれたが、私としてはやはりフランス文学の方により関心があった。しかし当時の私のフランス語の力ではフランス語でフランスの小説を読むことはできなかった。したがって、中学生時代にまだ読んでいなかった18世紀及び19世紀の小説に加えて、20世紀のロマン・ロラン、マルセル・プルースト、アンドレ・マルロー、ロジェ・マルタン・デュ・ガール等を日本語で読み漁った。

3.西アフリカで仏語猛勉強

東大法学部に進むと、専ら法律の勉強ばかりで外国語を勉強する機会はなくなった。しかし引き続き私は小説を読むのが好きで、英文学に関しては当時ペンギン文庫で英語の小説が手軽な値段で買えたのでいくつもの小説を原語で読んだが、フランス文学に関しては残念ながらフランス語では無理であったので、引き続き日本語で読んだ。

幸い外交官試験に受かり、希望通りアメリカの大学で2年間研修することになったので、私はフィラデルフィアの郊外にあるハヴァフォード大学を選び、そこで経済学を専攻することにした。5科目選ぶことができるのでフランス語を選びたいと思ったが、中級に入るには自信がなかったし、他方初級からやるのは馬鹿馬鹿しいと思った。そこで新しい外国語としてスペイン語を選んだ。ハヴァフォード大学の授業はもちろん全て英語であったが、スペイン語初級をとったのでスペイン人の先生について2年間徹底的にスペイン語を学んだ。後から考えると、スペイン語とフランス語は同じラテン語のグループに属しており非常に関係の深い言語であるので、スペイン語を学んだことはフランス語をより深く理解する上でもプラスになった。当時予期していなかったが、ユネスコ時代、中南米諸国の外交官や大臣との接触にあたって、又これら諸国の訪問にスペイン語の知識が非常に役に立った。

ハヴァフォード大学での2年間を終えたところで、外務本省より西アフリカのガーナ勤務を命ぜられた。ガーナに赴任すると、私の上司の中川進大使より「在ガーナ大使館は従来英語圏ガーナのみの担当であったが、リベリア、シエラレオネの英語圏2カ国に加えて、ギニア、マリ、コートジボアール、オート・ボルタ(現ブルキナファソ)、ニジェール、トーゴ、ダホメ(現ベナン)の7か国、合わせて10か国を担当することになったので、英語とフランス語両方で仕事のできる若手外交官を派遣してほしいと本省に稟請していたところ本省が君を選んだようだ。したがってガーナを含めてこれら10か国の政治情勢をしっかりフォローし本省への報告を随時書いてほしい。加えてこれらの国々に対して日本のことをPRする広報文化関係を担当してほしい」と指示された。

私はそのように在ガーナ大使館の守備範囲が広くなっていることを全く知らされてなかったのでびっくりしたし、英語ではしっかり仕事ができる自信があったが、フランス語は正直なところ自信がなかった。そこで大使に対し、フランス語の国々をカバーするにあたって私を補佐してくれるフランス人の秘書を雇ってほしい旨をお願いした。大使のおかげでガーナに住んでいるフランス人を秘書として雇うことができ、彼女には私のフランス語の仕事を手伝ってもらうだけではなく、何かにつけて私のフランス語学力をつけることを助けてもらった。

そして私自身もフランス語のレッスンを受けたいと思い、新聞に広告を出した。すると直ちにガーナ放送局でフランス語の国々に対して放送を担当しているトーゴ人が応募してきて面接をしたところ、非常に感じが良いので早速彼を雇って週2回徹底的な個人レッスンを受けることにした。

以上の次第で西アフリカ時代はフランス語を学び、それを仕事に使うことに非常に力を入れた2年間であった。正直言ってその際力を入れて学んだフランス語が、外務省時代、さらにはユネスコ時代に非常に役に立つということは全く予想していなかった。ただし、私が力を入れて学んだのはフランス語の「話す」と「聞く」であり、それに合わせて適宜「読む」にも力を入れた。しかし「書く」はしっかり学ばなかった。それはその後の外務省時代およびユネスコ時代の仕事上大きなマイナスにはならなかったが、もっとフランス語の「書く」を学ぶべきだったと今になって後悔している。

4.西アフリカで学んだ仏語、その後の仕事に役立つ

西アフリカから帰国後、外務省経済局に5年勤務し、最初の3年間は中近東課に、次いでその後の2年間は経済局全体のとりまとめをする総務参事官室に籍を置いた。中近東課といっても中近東諸国に加え、旧英国領のアフリカを除くすべてのアフリカの国々(旧仏領を含む)を担当した。したがって多少はフランス語を使う機会はあったものの、一般的に言って東京での勤務時はもっぱら日本語ばかりで、英語を含めて外国語を使う機会は少なかった。

唯一良い思い出になっているのは、中近東課時代1960年代の官民提携の経済外交の動きを反映し、北アフリカ6か国に経済使節団(団長は小泉幸久古河電工会長)を派遣した時で、私がお世話係で同行し、旧仏領のモロッコ、アルジェリア、チュニジアの3か国ではフランス語の通訳などを務め、フランス語の知識がしっかり役に立った。しかしそのような機会はあまり多くはなかった。

5年間の本省勤務後、パリのOECD日本代表部勤務を命ぜられ、4年間総務書記官を務めた。私の主たる役割は、OECDの中核機関である執行委員会および理事会に大使のお供をして出席することであった。OECDでは使用言語は英語とフランス語であったので、事前にフランス語の文献はフランス語でしっかり勉強し、会議でもフランス語の発言はフランス語で聞き、私の役割である外務省本省に対する報告電報をしっかり書いた。

しかしながら私のフランス語は5年間の東京勤務の間に明らかに退化していたので、ベトナム人女性からフランス語の個人レッスンを週2回くらいのペースでとった。

OECD日本代表部勤務ののち日本に帰ってからは東京やワシントンで日米関係を担当したので、フランス語を使う機会は全くなかった。しかし1980年代に入って外務本省での経済協力局勤務が始まり、ODA対象国であるフランス語圏のアフリカの大使と接触する機会が出てき、またフランス語を使う機会が生まれた。

 次に私がフランス語を仕事の上でしっかり使うことになったのは、1990年代に外務審議官(経済担当)になってからである。G7サミットのフランスのシェルパ、アンヌ・ロベルジョン女史とEU代表のパスカル・ラミー氏(後でWTO事務局長に就任)とは常にフランス語で対応した。唯一の問題は、ロベルジョン女史とは非常に親しくなったので、「チュトワイエ」する仲になったが、「チュトワイエ」のフランス語には全く慣れていなかったので、苦労した。しかしながらロベルジョン女史は当時のミッテラン大統領の副首席補佐官をしており、私は1994年にフランス大使としてパリに赴任してから電話連絡を含めて常時接触を保った。通常大使は外務省の担当局を窓口として仕事をするものであるが、私はこのように大統領府の幹部と直接連絡を取ることができ、大変プラスだった。

5.むすび

以上のような経緯を経て、冒頭に述べたようにフランス大使として5年半フランス語で仕事をし、さらにはユネスコ事務局長として英語とフランス語を両方使いながらかなりフランス語に重点を置いて仕事をした10年を送ることができた。

ユネスコ事務局長時代を終え、帰国後11年を越え、その間フランス語を使う機会は非常に少なくなった。しかし駐日フランス大使をはじめとするフランス大使館の幹部、さらには在京のフランス人の方々と接触する機会がかなりあり、私のフランス語は残念ながら退化してきてはいるもののなんとか維持してきている。例えば昨年在京のチュニジア大使と1時間近くフランス語で対談し、前半は日本とチュニジア関係について話をし、後半は来年チュニジアで開かれることになっているTICADについて話をした。その録画がチュニジア大使館のホームページや私が名誉会長をしているルネサンス・フランセーズ日本支部のホームページで動画として流され、嬉しく思っている。