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フランス語は獣医師の競馬記者が手に入れたもう1つの武器。
2014年秋季準2級合格
若原 隆宏
中日新聞大阪支社報道部/中日スポーツ中央競馬担当・滋賀県
私は東大農学部獣医学課程を出て「獣医師免許あり」の触れ込みでスポーツ紙の競馬記者をしている。「東大出」の看板は世の中では得をすることもあるようだが、冷や汗をかくこともある。私の場合、後者の方が圧倒的に多い。
2011年10月だった。ローズキングダムというGI勝ち馬が「天皇賞・秋」でフランス人騎手のI. Mendizabalと初コンビを組むことになった。同馬を管理する橋口師はトレーニングセンターの坂路の上にある監視塔の定位置にいる。同騎手がまたがっての初調教。取材陣も当然、そこに顔を並べた。あいにく通訳が別の英国人騎手に取られてその場にいない。橋口師の周囲を見回す視線が私に止まる。「若原君、大学で第二外国語、なんだったかね」。「ふ・・・フランス語でしたが・・・」。「右手前で入って、ラスト1ハロンだけ伸ばしてって、通訳して」。滝汗である。駒場を出てすでに10年以上。「右ってdroit、いやdroiteだったか」。語学力はそんなレベルまで落ちていた。結局そこは、やはりつたない英語で乗り切った。
できないと悔しい。それが仏語学習再開のきっかけだった。取材環境を振り返ると仏語ができるとかなりのアドバンテージであることに気づく。外国人騎手がたくさん来日する中に、仏語圏の騎手も多い。中には英語があまり得意でない者もいる。今では英語も達者になったI. Mendizabalも、初来日当初は英語に不安を持っていたようだ。通常、取材は英語の通訳を介すか、たまに英語で直接。サシで話していてもいつの間にか、わらわら人が集まってきて囲みになってしまうのが競馬取材の常だ。加えて彼らの話す英語のコメントは、通り一遍で明らかに建前トーク。彼らに仏語で本音が聞きたい。 仏語なら、仮に他社の記者が集まってきても、話している内容の詳細まで共有されるまい。衆人環視の中でも、注目を集める人気馬について。「今回はダメだろう」なんて聞き出せる可能性だってある。
駒場時代の教科書と、ほとんどめくっていなかったPetit Royalを引っ張り出してきた。文法を一通りやりなおし、教科書の仏文和訳や新聞記事の和文仏訳を繰り返したが、2年ほどはほとんど上達しなかったように思う。体系だった勉強法を知らなかったからだろう。
13年秋、凱旋門賞取材を命じられ初渡仏。案の定、語学は思っていたほど通用しない。確勝と期待したオルフェーヴルは2着。重なる無力感とともに帰国し「勉強の物差しに」と仏検の受験を決めた。当初5級からと考えていたが、年明けには目標を上方修正して4、3級の併願に。幸いどちらも無事合格し、自信がついた。
できるようになると楽しいのは語学の常なのだろう。準2級勉強中の14年10月。今度は自費で凱旋門賞を見に渡仏。凱旋門賞前後は日本人が大挙してパリを訪れる。語学に融通の利く宿は割高になるらしい。メトロAnatole France近くの安宿はロシア人がたくさん泊まっており、ロシア語はどうだか分からないが、とにかく英語は通じない。仏語だけで通せばすむパリ行きは、宿代でずいぶん予算を抑えられた。日本馬の勝利はならなかったが、うれしかったのは夜に繰り出したPMUcafé。前年は分からなかったが、今度は周りのおっちゃんたちがなにを叫んでいるのかよく分かる。きわどい写真判定に”Il faut 16″ “Non ! 10″。日本の競馬場や場外で飛んでいるヤジと何ら変わらない。馬券好きの考えることは日仏共通なのだ。宿から帰路につくとき、”Il me reste l’addition encore ?” びっくりするくらい自然に口から出た。さらに自信をつけて帰国。ほどなく受けた準2級もなんとか合格することができた。
15年春、C. LemaireはJRAに転籍し、日本の騎手になった。彼はトレセンでは流ちょうな日本語で取材に応じているが、きちんと仏語で聞けばそこそこ仏語でつきあってくれる。ほかにも相変わらず仏語圏から毎年数人、騎手が来日。14年秋に来日したP.C. Budotは来日初勝利の感激を、京都競馬場で仏語で答えてくれた。仏語圏の騎手に打った◎が穴を開けたとき、半分くらいは獣医師の若原ではなく、francophoneの若原が仕留めた穴だと思ってほしい。