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フランス語に挑む

青木 達郎

都銀及び関係会社に40数年勤め3年半前65歳で退職した。これからは自由な時間を好きに使って暮らしたいという気持ちが募り、組織から肩書きや名刺を貰って定期的に出勤する生活は止めて、海外ロングステイに年数回出掛けたり、身内の遠距離介護を応援したりする傍ら、身心の健康維持のため水泳教室通いと並んでフランス語の習得に挑戦する事とした。私とフランス語との出会いは、第三語学として少し齧った大学時代に遡り、フランスには東京五輪の頃研修生として駐在していたドイツからVWを駆って遊びに行ったり、その後内地から出張したりしたが、終始「フランス語で自由に行動出来たらなあ」という漠然とした憧れを抱いたものである。

フランス語の勉強はNHKラジオ講座を聴きつつ、02年秋から東京日仏学院に週1回通っている。唯これだけでは知識を整理したり進度を確認したりする事が難しいので、仏検で実力を測定してもらおうと思い立ち、03年秋5・4級、04年春3級・秋2級を受験し合格通知を頂いた。一方語学留学も当節は随分と気軽のようなのでロングステイと一石二鳥を狙って、APEFでお世話頂きこれまでに2週間ずつ3回出掛けている。

第1回は04年3月Antibes CIA校。最初の授業で基本的な動詞33語がdicterされその過去分詞を書けというテストがあった。私はlireとrire,boireとVoirを正反対に聞違えるなど十数個のミスを犯し先生も渋い顔。聞き取りは私の最大の弱点で今でも苦労の連続である。

第2回は04年7月Strasbourg CIEL校。矢張り初日、先生や同級生の話が半分も聞き取れず、授業の進行状況が分からないので呆然としていると、スペインのカルロス君が傍に来て「日本語で、愛している、キスしたいとは何と言うのだ」と尋ねるので、この男は日本娘をナンパする積りかと訝ながら教えたが、実はクラスで孤立しかけている私を、男性なら万国共通の話題で仲間に引き入れようとしてくれたのだと気付き胸が熱くなった。その内ワレサ元大統領が働いていたグダニスクの造船所から来たと誇らしげなポーランド女性、内戦が終結して本当に良かったと話すアンゴラの修道女、我々のルーツは中央アジアだと日本に親近感を持つハンガリー男性など話し相手が増え、充実した日が送れるようになった。

第3回は05年3月Bordeaux BLS校。今回は退職技術者夫妻のお宅にホームステイしたが、奥さんは正にCordon bleuでフランス家庭料理を堪能出来た。中でもlotte(アンコウ)のトマトソース煮は白身のトロリとした旨味が上手に封じ込められ絶品、魚料理は日本が一番と信じていた私は目から鱗の落ちる思いだった。

これら語学学校の先生方は総じて極めて精力的で、まるで手品師が帽子から次々と品物を取り出すように、色々な手法で熱心にスピード感ある授業を展開して行く。例えばBLS校のNathalie先生は、生徒が飽きて来たと見るや「シャンソンを聴こう」と言う、ヤレヤレとのんぴりラジカセを聴いていると、音楽が終るや否や単語や語句をリストアップしたプリントを配布し「今のシャンソンで聞かなかったものはどれか」と質問するという具合である。Nathalieさんが「professeurは同時に良いanimateurでなければならない」と話していたのが印象に残った。現在私のフランス語学習にはポキャ貧と聞き取りという難関がまるでアイガーの北壁のように立ちはだかっているが、仏検や語学留学で足場を固め手掛かりを探りつつ、「フランス語で自由に行動出来る」という目標に向って一歩ずつ努力を続けたい。